マルティン・デ・ペニャロサ

Martín de Peñalosa(1521年〜),1548年4月ガスカがバルディビアがチリ総督に任命された時すでにペルーにいた。

 

セレナを占領していた場所に到着すると、先住民に殺された住民の遺体を目の当たりにし、ペドロ・デ・ビジャグラと合流し、戦に参加した。

そこからサンティアゴに向かい、1550年1月バルディビアの南方遠征に同行した。1ヵ月後に行われたアンダリエンの戦い、同年10月に行われたコンセプシオンの砦と都市の建設にも同行。

へロニモ・デ・アルデレテのカウテン、アンゴルへの旅に同行し、1551年3月インペリアルの建国にも参加し、隣人として定住した。

 

マリウエニュの戦いの後、インペリアルにリーダーとして残っていたペドロ・デ・ビジャグラとともに、1556年各地の救援のためにそこから進軍した12人の兵士の一人であった。

 

ガルシア・フルタード・デ・メンドーサ政権時代のペニャロサの地位については記録がないが、「重要な仕事に携わり、勇敢な兵士であることを示しながら、立派に仕事をこなした」という記録がある。

 

1562年彼は大尉の地位にあり、常にインペリアルを拠点とし、1559年と1561年の2度参事官を務めた。ただ、富を得ておらず、自活する手段がないことを知った彼は、何人かの友人とともに、密かにインペリアルを出て、金と人々に恵まれ豊かな土地に行こうと決意する。

 

親友であったフランシスコ・デ・タラベラノと連絡を取り合い、秘密裏に行動を始め、バルディビア市とオソルノ市という互いに近い2つの都市の間で会う日を決めた。ペニャロサは、4人の友人を連れてインペリアルを出発した。ただし彼にはある疑惑があり、インペリアルの司法官は、12人の兵士を追わせ、かつ他の都市にも指名手配のおふれを出した。

 

フアン・デ・ラレイナガはオソルノ市から、リカ・ペドロ・デ・アランダ市はバルディビア市から、フアン・デ・マティエンソはバルディビア市から、それぞれ武装した人々を引き連れてペニャロサを探しに出かけた。彼らは待ち合わせの場所で合流する予定だったが、何人かは行方知れずとなった。

 

フランシスコ・デ・ビジャグラ傘下のブルゴス山地出身のフアン・デ・マティエンソは、バルディビア市を担当していた。マティエンソは5、6人の部下を連れたアルグアシルが捜索すれば十分だと考えた。捜索したところ、食事と馬に餌を与える為に先住民の家に潜伏しているペニャロサを発見し捕らえた。エルナンド・デ・アルバラード、マルティン・デ・エレーラ・アルボルノス、そして、フランシスコ・デ・タラベラノも一緒に捕らえた。

 

その後、彼らはバルディビア市まで連行され、裁判長は2人を船に乗せ、拷問した。そこで彼らの首を切り落とし、絞首台に乗せるよう命じた。拷問から得られた情報はフランシスコ・デ・ビジャグラに送られた。しかし、フランシスコ・デ・ビジャグラはその情報からは何人かの名士がこの件に関与しているのを察し、彼らが巻き込まれないように、これ以上この件を探る事を禁じさせた。
ペニャロサは「誉の14傑」に数えられるが、影のある人物でもあった。

 

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