ドニャ・メンシア・デ・ロス・ニドス

Doña Mencía de los Nidos(1514年頃〜), フランシスコ・デ・ロス・ニドスとベアトリス・アルバレス・コペテの娘、 二人ともカセレス出身の貴族の家系に属する。

 

1544年末フワナ・コペテ・デ・ソトマイヨールとゴンサロ・デ・ロス・ニドスの2人の同腹とペルーに渡る。
やがてゴンサロ・ピサロが反乱を起こした。彼女達の父親とアルマグロの間に遺恨があった為、兄弟のゴンサロ・デ・ロス・ニドスはゴンサロ・ピサロを支持する事になる。ハキハワナの戦いでゴンサロ・ピサロが敗れると、兄弟は無惨に処刑されてしまった。

 

ドニャ・メンシアは1549年姉のドーニャ・フワナの夫である義兄ビセンシオ・デ・モンテとともにチリに渡った。そして、コンセプシオン市に落ち着きひっそりと暮らしていた。

 

しかしその様な暮らしは長くは続かなく、1554年に同市がマプチェに包囲されてしまう。当時、チリ総督となっていたフランシスコ・デ・ビジャグラは市民にこの地を離れる事を命じた。ドニャ・メンシアは病の身ながら大剣を掲げながら演説し、フランシスコを面と向かって非難した。しかし、フランシスコは聞く耳を持たず放棄は決行された。

 

その後、ジャノス・デ・オソルノのエンコメンデロであったクリストバル・ルイス・デ・ラ・リベラ大尉と結婚したが、彼は1565年頃に亡くなった。
二度目はコンセプシオン王宮の会計官であったエルナンド・ブラボ・デ・ビジャルバと再婚したが、彼は1599年に先住民に殺された為、2度も夫に先立たれた。

 

ドニャ・メンシアは1603年、サンティアゴで子を残す事もなく老衰で亡くなった。遺産は残さず、甥のルイス・モンテ・デ・ソトマイヨールを遺言執行者に指名し、ラ・メルセド修道院に埋葬するよう命じた。

 

彼女の墓碑には、「もしローマが世界を支配していた時代に似た様な事がこの女史の身に起きていたなら、永遠に崇拝される神殿が建てられたことだろう」と刻まれている。

 

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