フランシスコ・デ・アギーレ

Francisco de Aguirre Meneses(1507年〜),カスティーリャ王国タラベラ・デ・ラ・レイナで生まれ、エルナンド・デ・ラ・ルア・ラミレスの息子、ドン・フアン・アルフォンソ・テレス・デ・メネスの曾孫。従って、カスティーリャとレオンの王アルフォンソ10世 “賢王 “の直系子孫であり、その息子であるカスティーリャの君主サンチョ4世を通じて、メネス家の家系はブルゴーニュ家の子孫とつながっており、様々な王家とも血の繋がりのある非常に由緒ある家系である。父と父方の祖父はデ・ラ・ルア姓を名乗ったが、フランシスコ・デ・アギレーレは常にアギーレ姓を名乗った。当時のスペインでは、より名誉ある先祖の姓を名乗ることが一般的であった。

 

1521年カルロス1世がスペイン、イタリア、ドイツの兵士を率いて、フランス占領下のミラノ公国を奪還。フランシスコ・ピサロ、アギーレ、バルディビア、アルデレテ、後にペルー、チリなどの征服で功績を残した者達が従軍していた。1525年フランス王フランシスコ1世を捕らえたパビアの戦いで、アギーレは傑出した役割を果たした。

1527年ローマ劫掠で帝国軍がローマ市を攻撃した時、掠奪行為を繰り返し、女性達は次々と犯されていった。地獄絵図と化していく最中、アギーレは戦死した部隊長に代わり指揮を取り、帝国軍でありながら彼は修道院や修道女達を守った。

この行動は皇帝とローマ教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)の目に留まり、アギーレはこの機会を生かし従姉妹のマリア・デ・トーレス・イ・メネセスとの結婚を認めてくれるよう求めた。当時、このような親族間の結婚を許可する習慣はなかったが、教皇はすぐに結婚を許可した。その結果、カルロス1世もアギーレに褒美を与え、タラベラ・デ・ラ・レイナのコレギドールに任命した。

 

1534年息子のエルナンドと甥のミゲル・デ・アルディレス・イ・アギーレを伴ってアメリカ大陸へ航海。新大陸に到着後、1536年コチャバンバで包囲されているゴンサロ・ピサロを救出する遠征隊の一員となる。その後、ディエゴ・デ・ロハスの指揮の下、現在のボリビアにあるチャルカス州の征服に参加。

1537年ペルーに到着した時に丁度アタワルパの処刑されていた。アギーレはすぐにペルーの征服者の指揮下に置かれた。ロハスがペドロ・デ・カンディアに会うためにタリハのチリグアネスの谷を通ってチュンチョスへ行った後も、アギーレはチュンチョスの副知事として留まった。 数ヵ月後、アギーレは軍を整え、ロハスとその副官フランシスコ・デ・ビジャグラを探す為に出立した。

チャルカスに戻ろうとしていたディエゴ・デ・ロハスはアギーレと合流し、その後ロハスはクスコに向かい、ロハスの軍隊の一部はチャルカスへ、他の軍隊はアギーレとフランシスコ一行に組み込まれ、バルディビアを待つためアタカマに向かった。

 

1541年にはバルディビアの信頼を得てサンティアゴ・デ・チレの初代市長となるが、同年に市が襲撃を受け、重傷を負う。
1551年10月8日バルディビアは、アギーレをトゥクマン(現ボリビア南部、アルゼンチン北部)のラ・セレナ市とエル・バルコ市、および北海(大西洋)に至るまで総督の管轄下にあるすべての市と町の副官に任命した。2年前からガスカがヌニェス・デ・プラドにトゥクマンを統治する権限を与えていた。しかし、バルディビアはプラドが統治を放棄してペルー戻ったと事実でない事をでっち上げ、強引にトゥクマンの利権を得ようとした。プラドが町を留守にしている間に、アギーレは軍を整え進軍し、容易に町を占拠した。プラドが町に帰ってくると捕らえられ、チリに移送された。アギーレはプラドの合法的な代理人であることを宣言し、新たな選挙を行い、トゥクマンを統治した。サンティアゴ・デル・エステロ(アルゼンチン)の創設者、北方の先住民によって破壊されたラ・セレナ再創設者となった。

 

バルディビアとアギーレの間には、明白な共感と相互の尊敬の念があり、アギーレは、他のいかなる権力者の仲介も受けずに、バルディビアと直接取引すべきだと考えるようになった。バルディビアとアギーレは、自費でアンデス山脈と北海(大西洋)の間の土地を征服し、いくつかの都市を建設してスペイン国王に報告すれば、スペイン国王はそれらの土地の管轄権を与え、太平洋から大西洋に至るすべての土地をひとつの統治下に置くことが出来ると考えた。

時が経ち南部のビジャグラ、中央部のキロガとともに事実上のチリ共同総督に任命された。

「教養ある知性を有し、コンキスタドール達の中で最も正当にその生まれの高貴さを誇れる人物の一人であった。」と評されている。専門知識と先住民を扱う知恵に長けており、「チリに来た至高の槍使い 」とみなされた。ただアギーレの苛烈で支配的な性格は、しばしば各地に多くの敵を作る事になった。

 

フランシスコ・デ・アギーレはチリとトゥクマンで最も多くの征服者を輩出した人物であり、妻マリア・デ・トーレス・イ・メネセス との間に5人の子供、さらに50人の婚外子がいた。アギーレの子孫には、アルゼンチンの英雄マリアノ・ボエド、アルトゥロ・オニアティヴィア、アンジェリカ・ラモーナ・モレノ・ロボ(アルゼンチンで最初に薬学で化学を学んだ女性の一人)がいる。

 

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