ディエゴ・ガルシア・デ・カセレス

Diego García de Cáceres(1517〜), ディエゴ・ガルシアとフランシスカ・サンチェスの息子であり、彼らはユダヤ人の改宗者であった為、貿易に専念していた可能性がある。宗教的な理由から周囲から離れ、より良い世界を求めていた。

 

1534年頃カセレスは、フェリペ・グティエレスがベラグア地方の探検に出る事を知り、全財産を売り払い、装備を購入して遠征に参加した。しかし厳しい地形、食糧不足、兵に対する苛酷な扱いなど様々な要素で探検は失敗に終わった。

 

フランシスコ・ピサロがインカの反乱によってペルーで窮地に陥っていることを知った。そこで、ペドロ・デ・カンディアのチュンチョスへの旅に加わったが、特に旨みがなかった。2度の失敗に落胆することなく、タリハでバルディビアがチリへ向かう為タラパカで人集めを待っていることを知り、合流した。

 

カセレスはサンティアゴが建設する以前から、先住民に和平を呼びかけるために近隣を回ることを任されていた。バルディビアがプロマカエスへ向かう時も同行したが、サンティアゴ市が襲撃に遭い、急遽同市へ戻らなければならなくなった。

ペドロ・ゴメス大尉と共にアコンカグアを目指したが、先住民の襲撃に遭い、厳しい旅となった。次に、ゴメスと共にラ・リグア谷の平定に出向いた。しかし夜襲を受け、敗走寸前まで追い込まれた。

バルディビアと共にタンジャロンゴという指導者が要塞を構えていた岩山を攻撃し、先住民達を捕える事に成功した。また、バルディビアと共にに南方へ探検を行ったが、そこで多くの先住民に遮られマウレ川を越える事は出来ず、帰らなければならなかった(1544年2月~4月)。

翌年(1545年9月)パステネの大航海に同行し、41度15分のサンペドロ湾まで沿岸を探検したが、激しい嵐に見舞われた。その1年後カセレスは、わずか7人の仲間(うち2人は聖職者)を連れて、助けを求めてペルーに向かうことになった。しかし到着してみると、ペルーはゴンサロ・ピサロによって混乱していたが、バルディビアにペルーの状況を伝える為に、即座にチリに戻ることにした。ただ、陸路で移動しなければならず、ピサロの手の者に襲撃される危険性もあった。

策略を駆使しなんとかリマを後にした彼は、アントニオ・デ・ウジョアが指揮する100人ほどの兵をチリに送っていることを知り、合流してアタカマまで旅を続け、そこからサンティアゴまで行軍を続けた。その時ガスカがペルー平定のための皇帝の使者として到着したことを知った。サンティアゴまでの道中で先住民に襲われ、兵士の半数は殺され、持っていた物全てを奪われた。カセレス達は手負になりながらも、1547年11月18日にサンティアゴに到辿り着いた。
バルディビアはカセレスから情報を聞き、ペルーへ向かう決意を固め、12月6日カセレスなどの精鋭を引き連れてバルパライソを出港した。

バルディビアは遺言の中で、彼を遺言執行人にも任命した。サンティアゴでは1550年にバルディビアから任命された永久市会議員を務め、その後2年間市会議員を務め、1553年にはアルグアシル市長、1556年にはアルフェレス・レアル市長、1568年には警察官となった。1575年にはバルパライソに店を構えた。

 

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