フワン・ゴメス・デ・アルマグロ

Juan Gómez de Almagro(1516年〜),カスティージャ・ラ・マンチャ州にあるシウダー・レアル地域のアルマグロ生まれ。「誉の14傑」の筆頭、「都の長」と呼ばれた。バルディビアの

マセ・デ・カンポ(参謀)。国王から報酬を受けた8人のアルバラデロス(鉾槍ハルバートを担ぐ護衛)を常に引き連れている。

 

父アルバル・ゴメス・ルネル・デ・サンドバル・モンテネグロで、父の異母兄はチリの発見者ディエゴ・デ・アルマグロ。1534年ロドリゴ・デ・コントレラスと共にニカラグアに渡る。同州にしばらく留まってはいたが、フランシスコ・ピサロが先住民の反乱により助けたを求めてきたので、ディエゴ・デ・ロハスと共に1537年にロス・レイエス市(ペルーのリマ)に到着 。

 

ペルーの北部に上陸し陸路を進み、ナスカでピサロと合流し、クスコまで行動を共にした。1538年4月5日ラス・サリナスの戦いでは、兄ディエゴ・デ・アルマグロ側でなく、ピサロ軍として戦い勝利に貢献した。ピサロは、その功労に報いるため、翌年グアマンガに彼を派遣し、先住民を分け与えた。

 

1540年1月フワン・ゴメスと父は、その町にいた先住民を手放し、バルディビアの征服に加わった。バルディビアは、幸運にもチリの征服を引き受けるための食糧を手に入れたばかりだった。当初、その事業にはフワン・ゴメス親子を含めて11人程しか参加していなかったが、彼らは並々ならぬ決意でそれを引き受けた。
フアン・ゴメス親子はディエゴ・デ・アルマグロの親類であり支援者でもあった為、微妙な立ち位置であり、ピサロとしてはペルーから遠ざけたい思いもあった。その為もあってか、バルディビアの遠征に加わる事を黙認したとも言われている。

 

バルディビアは南への行軍を続け、その年の4月にタラパカの町に到着した。フワン・ゴメスの父は野戦司令官の任を与えられ、多くの任務のひとつを遂行した後、数日後に過酷な遠征でコピアポの砂漠の中で息を引き取った。
その後も遠征は続き、6月に遠征隊はアタカマ・ラ・チカに到着。そこからバルディビアは少数の兵を率いてアタカマ・ラ・グランデに向かった。残りの兵はフワン・ゴメスの父に代りペドロ・ゴメス・デ・ドン・ベニートが野戦司令官の任を引き継いだ。

 

バルディビアは自身へのある陰謀を察知した。丁度フワン・ゴメスと共に行動していたグスマネスとアバロス達をフアン・ゴメスに命じてペルーへ送り返させた。
これから大都市を築く為の場所(後のサンティアゴ)に到着する前に、フワン・ゴメスは命を落としかねない出来事に遭遇した。バルディビアは一行を連れてリマリ渓谷を探索中に、先住民に襲われた。その際、バルディビアとフワン・ゴメスとお付きの3名は馬を失い、本隊に合流できなかった。

 

1541年2月12日ゴメスがクスコを出発してから1年1ヶ月を経て、最初のカビルドが選出された。と同時にバルディビアにより、フワン・ゴメスはサンティアゴ市の全ての地区の管轄権を有する保安官に任命された。

 

フワン・ゴメスはバルディビアのプロマカエス(カチャポアル人居住区)への探索にも同行した。ただし、サンティアゴが襲撃されてしまった為、彼らは引き返す事になった。

 

バルディビアを忠義の士として、よく補佐し3年間の末、トポカルマなどの先住民の分配をフワン・ゴメスに与えた。1545年8月、バルディビアはフワン・ゴメスの家に幽閉されていた5人の部下(その中にはカビルドのメンバーも含まれていた)を最後の拷問にかけ、自身への陰謀の真相を究明していった。そして陰謀の黒幕であるペドロ・サンチョ・デ・ラ・ホスの処罰にもフワン・ゴメスは介入した。

 

ホスは3度に渡り秩序を乱す事を試みた後、ゴンサロ・ピサロの反乱に参戦する為にペルーに向かう動きを見せた。彼は1547年12月の初めにサンティアゴからバルパライソに向かい、同月8日にチリ総督の座に就こうとした時まだバルパライソにいた。バルディビの副官として近隣に残したフワン・ゴメスが、ホスの逮捕の決定的な後押しをした。

 

その後、バルディビアから手厚い手当を約束され、ガルシア・メンドーサの統治下の時代にも報酬を授与され、表向きは地理全土で最も裕福とされるエンコミエンダの所有者となった。ペルー出身の女性を妾とし、アルバロ・ゴメスという息子を儲けた。フワン・ゴメスは、フワン・デ・エスコベドの正統な娘であるドーニャ・フランシスカ・エスコベドと結婚し、フワン・ゴメス・デ・リバデネイラという息子も儲けた。

 

以前からエンコミエンダの所有権は、王室の役人によって彼に与えられたものであったため、争われることになり、そこから訴訟が起こった。トゥカペルの戦い時のプレン砦の攻防で戦争責任まで持ち出され、訴訟は難航した。
また、トポカルマに所有していたエンコミエンダの所有権をめぐって、フワン・ゴメスとタラバハノと間で問題が起きた。
さらに、1564年9月2日ペドロ・デ・ビジャグラがドン・フランシスコ・デ・イララサバルに譲歩し、リマ王宮も関わってきたキヨタの先住民の問題は、フワン・ゴメスを不利にし複雑化した。

こうして、フワン・ゴメスに対して計4件の訴訟が起きた。フワン・ゴメスの歴史的な活躍となったプレン砦での攻防だが、見方を変えてその戦の責任問題まで持ち出されて、訴訟の種にされた。彼の晩年は、常に幾つかの訴訟と向き合う人生となった。

 

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