ペドロ・デ・ラ・ガスカ

Pedro de la Gasca(1485年6月〜), ナバレガディージャ生まれ。1547年4月10日から1550年1月27日まで第2代ペルー副王代理を務めた。
サラマンカ大学とアルカラ大学で学び、司祭、弁護士となり、外交官までこなした。1542年カルロス1世の代理として、ローマ教皇やヘンリー8世との交渉にもあたった。

 

ゴンサロ・ピサロが反乱を起こし、1546年に初代ペルー副王ブラスコ・ヌニェス・ベラが戦死した。カルロス1世は様々な戦争をした為余裕がなく、ゴンサロに対抗する軍隊を送ることが出来なかった。その為、ガスカをアウディエンシア(王立の大審問院、副王と並ぶ役職)の総裁に任命し、反乱軍を罰したり恩赦したりする無制限の権限を与え、リマに派遣する事にした。

 

1546年5月ガスカは軍隊も資金も持たずに、2人のドミニコ会司祭と数人の使用人を引き連れてスペインを出航した。パナマに到着すると、秩序の回復と一般的な恩赦を与える事だけを任務とする和平調停者であることを表明する。そして、もし自分がその任務を果たせないのであれば、より強力な方法でペルーの秩序を回復する為に、6月に40隻の船と15,000人の兵からなる王室艦隊がセビリアから出航する準備をしていることを示唆した。

 

ピサロ勢力艦隊はパナマに駐留していたが、ガスカの外交手腕により、すぐにピサロ勢力の将校たちを従わせた。しかし、ゴンサロは服従を拒否し、信頼出来る軍隊のいるクスコに密かに逃亡。ガスカはピサロ勢力のほぼ全艦隊に護衛され、1547年にトゥンベスに上陸した。

 

ガスカは、平和の守護者としての使命を宣言し、全ての善良な市民に平穏を取り戻す為に、協力するよう呼びかけた。また一方で、全ての脱走兵に恩赦を与え、王権を守るために武器を取る者には褒美を与えると約束した。さらに、反乱が組織された大義名分ともなっているインディアス新法を撤回した。

 

たちまち強力な軍隊が出来上がり、ガスカは自ら指揮を執り、1547年12月にクスコに進軍する。ゴンサロはクスコ近郊のハキハワナ平原に強力な軍勢を率いて到着したが、ガスカは軍事力よりも外交力で攻略に乗り出した。ゴンサロの将校たちと交渉に入り、約束と脅しによって彼らを味方につけていった。両軍は1548年4月9日衝突をした(ハキハワナの戦い)。「アンデスの悪魔」と呼ばれたフランシスコ・デ・カルバハルを除き、ピサロの将校と兵士のほとんどはラ・ガスカに寝返った。王党派軍は自らほぼ攻撃を加えることなく、戦の支配者となった。ガスカは、ゴンサロとカルバハルを含む重要な従者を処刑させた。また、反乱軍の大部分を赦免し、一部の者たちを追放し、王党派には報酬を与えた。司法行政と徴税を再編成し、以前インディアス新法を撤回したものの結局先住民の抑圧に反対するいくつかの規則を発布した。ガスカは機転が利き、思慮深く、職務にも献身的であった。

 

1549年ガスカは権限をアウディエンシアに明け渡した。1550年1月27日ガスカはスペインに戻るためにペルーを去った。1561年フェリペ2世は彼をシギュエンサ司教に昇格させた。

 

ガスカの有能さの根幹にあるのは誠実さであったと評されている。一方で、ガスカの容貌は美形とはほど遠く、均整が取れていなかったとも言われている。

ガスカの有能さと傑出した功績は、ルックスの与える印象の悪さを克服する為に、磨かれていったのではないかという説まである。

 

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