フワン・デ・アルバラド

Juan de Alvarado(1524年〜), アロンソ・デ・アルバラドの甥で、エルナンド・デ・アルバラドを従兄弟にもつ。「高貴な山人」の通り名を持つ。1555年にペドロ・デ・バルディビア総督の義兄ディエゴ・ニエト・オルティス・デ・ガエテの娘マリア(ルイサ?)・デ・コラドスと結婚。二人の息子は大尉となるディエゴ・デ・アルバラード・コラドスと、司祭となるガルシア・デ・アルバラード。

 

若くしてカルロス1世とともにフランドルのゲント市攻略に参加。1546年ガスカの供として叔父のアロンソ・デ・アルバラドと共にペルーに向かいハキハワナの戦いに参加した。

 

1551年にトゥクマンを通過した遠征隊でフランシスコ・デ・ビジャグラにスカウトされてチリへ。コンセプシオンの市長兼エンコメンデロとなる。コンセプシオンはマプチェに占拠され、フワン・デ・アルバラードと家族を連れ、翌年の冬バルディビアに定住するため、バルパライソでガレオン船で乗り込んだ。

 

強い北風を伴う嵐によって、プロビンチャ・デ・ロス・コロナドスまで連れて行かれた。ガレオン船はおそらく、現在のアンクド湾の南の浜辺で難破した。先住民に襲われたが、フワン・デ・アルバラドは彼らと親しくなり、難破船から小さな船を作るのを手伝わせた。最終的にバルディビア市まで犠牲者を出すことなく到達した。

 

その後、フワン・デ・アルバラドは紆余曲折を経て、ガルシア・ウルタド・デ・メンドーサに軽蔑され、先住民奴隷を何人かを奪われた。ガルシアに無礼とみなされる手紙を書いてしまい、逮捕され国外追放を言い渡された。この追放のために、ラファエル・ゲジャマス・デ・メンドーサとの長い訴訟(1559年~1567年)が続いた。

 

スポンサーリンク

▶︎戻る

コメント