ディエゴ・デ・アルマグロ

Diego de Almagro(1479年〜1538年7月8日), シウダ・レアル県アルマグロ司法管轄区アルマグロ村生まれ。ヨーロッパ人として最初にチリを発見。「エル・アデランタード(征服地の統治権を持つ司令官)」や「エル・ビエホ(老人)」と呼ばれていた。

 

父はホアン・デ・モンテネグロと母エルビラ・グティエレス。両親は婚約していたが、正式な結婚の前に別れた。エルビラは既に妊娠しており親族のサポートの元、密かに生まれた。エルビラの親族は名誉の為、アルマグロを近隣のボラニョス村へと伴い、サンチャ・ロペス・デル・ペラールの後見の元、カスティーリャ王国新カスティーリャ(現在のカスティーリャ=ラ・マンチャ州のアルデア・デル・レイ)に移り住んだ。アルマグロは叔父に虐待を受け、15歳のときに家を出る。

 

アルマグロはルイス・デ・ポランコ(セビリャの指導者の一人)の使用人となるが、同僚の使用人と喧嘩し重傷を負わせて逃亡した。投獄されない様にセビリャから逃れて、アンダルシア州で放浪者となった。

 

丁度その頃、新大陸発見の話を知り、パナマ総督ペドロ・アリアス・ダビラの艦隊に応募し、パナマに到着時にピサロに会う。アルマグロは1515年12月にピサロが初めて船長となりアルマグロと航海に出た。ピサロの第1回目の遠征に同行し新世界の沿岸部の現地人との戦いで左目を失った。 14カ月に及ぶ遠征の間に、アルマグロ、ピサロ、エルナンド・デ・ルケは絆を深めた。

 

アルマグロはエスピノザの遠征に参加し、パナマ湾で行われた侵略、建設、そして征服に参加した。
その後、4年間彼は新たな遠征に参加せず、ピサロの所有物の管理に専念する。パナマ先住民アナ・マルチナスとの間に長男ディエゴ、通称「エル・モソ(若者)」が生まれてた。

1524年南米に向けた征服の協定が、アルマグロ、ピサロ、ルケの三者間で正式に締結される。8月初旬には、南方の彼方に陸地を発見し、征服するために必要な許可を得た。幾度の南米への遠征の後、ピサロはペルーでの基盤を固め、インカ帝国の領土を探検していった。

1532年カハマルカの戦いで皇帝アタワルパを破り、ピサロはアルマグロをインカ帝国北部の都市キトに派遣した。当時、インカの金を求めたペドロ・デ・アルバラードのメキシコからの到着し状況が複雑化した。しかし、ピサロはアルバラードへ金銭による賠償をし、それと引き換えに彼を南米から撤退させた。

アルマグロは、1534年8月現地人の都市であったキトを再建し、ピサロに因んで「サン・フランシスコ・デ・キト」と名付ける。4カ月後にはペルーのトルヒーヨ市を建設し、これもピサロの出生地に因んだ命名であった。その様な事からも、アルマグロとピサロの絆の深さ伺える。
ピサロとアルマグロは1533年にクスコを占領。アルマグロは1532年11月に王から称号や紋章を与えられ財産を得てはいたが、主要な統治権が与えられず、ペルーの統治や権力がピサロに与えられたことに反発を強めていた。

 

アルマグロは既にペルー征服によって十分な富を得てはいたが、南方で更なる地を征服する事に非常に魅力を感じていた。新しい探検のために、資金を集め500人の兵を集めた。
アルマグロは王室に対する不平を述べ交渉し、スペイン王室は1534年までに、2本の平行線により新植民地を分割することを決定した。「ヌエバ・カスティーリャ」(南緯1度から14度まで、ペルーのピスコ近辺)と「ヌエバ・トレド」(南緯14度から25度まで、チリのタルタル近辺)に分割され、それぞれ前者をピサロに後者をアルマグロに割り当て総督とした。軍備を整え、補給物資を輸送する為に100人のアフリカ人の奴隷と約1万人の現地人の奴隷も合流させた。

アルマグロはインカ帝国の高級官僚に依頼し、行軍ルートを準備し、インカ最高位の神官長であったウィヤク・ウムを送った。ただインカ勢力は、ピサロが新首都となったリマに行き、アルマグロがチリ方面の行く事で、クスコ奪還が容易になるという目論見があり、アルマグロに協力していた。またスペイン人が金に関心を示していたので、それを利用して南方へ金が潤沢にある事を示唆し、遠征の意欲を刺激していた。

 

進軍途上であったアルマグロは配下のフアン・デ・サアベドラ進軍をさせ、使役するため現地人を捕獲、充分な食糧と共に小規模な町を建設し、残りの隊を待つように命じた。
アルマグロは1535年7月3日に50人の配下を連れクスコを出立し、モイナに同月の20日まで駐留。その間フワン・ピサロがマンコ・カパック2世を捕らえた為、更に複雑な状況になった。フワンに合流する為、ボリビアの山脈を越え、チチカカ湖、デサグアデロ川、トゥピサ、チコアナを通過した。アンデス山脈も超えでは、飢えや寒さ、疲労でスペイン人や奴隷、特にそのような厳しい気候に慣れていなかった者達が次々と死んでいった。

アルマグロは一部の部隊に先回りして助けを求める様に命じた。その部隊はコピアポの谷を見つけた。その場所で、ゴンサロ・カルボ・バリエントス(ピサロよりインカ皇帝の身代金を盗んだ罪でペルーから追放されたスペイン人)が、先住民と友好関係を築いていた。そして、アルマグロはコピアポ川の渓谷をスペイン王の名において、領地とする事を要求した。アンデス山脈越えは、パウリュ・トゥパック・ユパンキの援助があったという説もある。

アルマグロはアコンカグア川の谷に向かって探検を開始すると、現地人に暖かく迎えられた。しかし、通訳であったフェリピロ(ピサロが皇帝アタワルパを処刑するのを手伝った先住民)が、秘かにアルマグロ達を攻撃するよう現地の人々を煽った。しかし、現地の人々はフェリピロの言葉には乗らなかった。

 

アルマグロはゴメス・デ・アルバラドに探検を続けさせたが、探検の途中マプチェ族と衝突(レイノウェレンの戦い)する事になる。ゴメス・デ・アルバラドは戦に勝利したものの何も得ることが出来なかった。そこには黄金都市は存在せず、獰猛なマプチェ族と農業により生計を営む先住民の共同体しかなかった。このニュースは、アルマグロにとって厳しく寒い冬と共に、2年続いた南方探検が失敗に終わった事を実感させた。

 

アルマグロは現チリには都市を建設する事は出来なかった。1536年9月にペルーへの帰還を開始。帰還の道中で、恩を仇で返すが如くアルマグロは配下の者たちの略奪行為を認めていた。先住民は、捕らえて、拘束されながら、アルマグロ達のの所有物を運ばされた。喉の渇きと空腹に耐えながらアタカマ砂漠の横断し、1537年にアルマグロは遂にペルーのクスコに達する。そして、クスコの富のうち自分の分け前を要求する事を目論んだ。

 

その前年にマンコ・インカ・ユパンキが王都を取り戻し、聖なる谷でのスペインの影響力を弱めていた。アルマグロは、スペイン政府を代表してマンコ・インカに対する特赦を申し出た。クスコ攻撃の最中に公式には、マンコ・インカはアルマグロと手を組まなかったが、エルナンド・ピサロ軍がマンコ・インカを追跡しアンデスを進んでる間、アルマグロ派がクスコを占拠することを黙認した。

 

エルナンド・ピサロ軍が戻った時、アルマグロ軍がこれを撃退し、エルナンドとゴンサロのピサロ兄弟を捕虜とした。ピサロは兄弟奪還の為、アロンソ・デ・アルバラード軍を進軍させ、1537年7月12日アバンカイの戦いでもアルマグロ軍が勝利した。しかし程なくして、ゴンサロ・ピサロとアルバラードは刑務所から脱獄した。その間、アルマグロはパウリュ・トゥパック・ユパンキを傀儡皇帝として擁立している。

 

アルマグロとピサロは交渉し、アルマグロへのクスコの完全な統治・管理権と引き替えに、エルナンドの解放が決定した。とは言え、ピサロはクスコを諦めるつもりはなかった。ピサロは軍の強化の為の時間稼ぎをしていただけであった。
そして、アルマグロは病を患い、ピサロは好機を得た。1538年4月にクスコ郊外のラス・サリナスの戦いで、ゴンサロ・ピサロ軍は勝利した、アルマグロを捕らえた。
1538年7月8日アルマグロは死刑を宣告され、監禁中に斬首となる。亡骸は、敗北者としてクスコの大広場に晒された。忠実な使用人であったマルガリータによって、クスコのラ・マーセッド教会の下にアルマグロを埋葬された。

 

 

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