ペドロ・デ・ミランダ

Pedro de Miranda(1517年〜1573年11月1日),サラゴサ、あるいはオビエドで生まれ。サンチョ・ガルシア・デ・ミランダとマリア・デ・ビデバの息子。

 

1537年にペルーに到着、インカ帝国征服の初期にフランシスコ・ピサロに従軍し、ビルカバンバ要塞の襲撃に参加し、カピリマチを捕らえた。グアマンガの町では、フアン・ゴメス・デ・アルマグロとその父を知りあった。バルディビアがチリ征服のためにクスコから出発することを決意したとき、クスコにいたミランダもバルディビアの一団に加わった。

 

1541年9月11日サンティアゴが襲撃された時、バルディビアと共にカチャポアル地方にいた。
1542年馬の減少、食糧不足と南方の征服どころではなくなっていた。そこでモンロイが物資を求めてペルーに向かう事になり、ミランダも同行した。旅は難航を極め、途中先住民の捕虜になりながらも8ヵ月後の1543年9月23日モンロイとミランダはクスコに到着。

(詳細▶︎アロンソ・デ・モンロイに掲載)

 

1543年12月20日モンロイとミランダは兵や物資を携えてサンティアゴに戻った。帰国後、ミランダはバルディビアと共に、蜂起したプロモウカエスとの和平交渉に出かけたが、何度か戦闘に巻き込まれ、タグアタグアの戦いで負傷した。それ以来、彼はほとんど家を出なくなった。

 

1555年カルロス1世からスペイン行きの許可が出たが、新大陸から離れなかった。その後、エンコメンデロとして市民の間で大きな名声を得て、は、1549年には市の執行官、1550年には忠実な執行官とカビルドの市会議員に選出され、1552年には教会の執事、何度か市長に選出された。

 

ミランダは、ヘロニモ・デ・アルデレテの妻だった未亡人ドニャ・エスペランサ・デ・ルエダと結婚した。
1564年12月末日アルデレテに与えられていたエンコミエンダを寄付金として彼女が受け取り、その所有権をめぐってフワン・ゴディネスが訴訟を起こしていた。この訴訟は両者によって継続され、約8年にわたる訴訟の末、最終的にミランダに有利な判決が下され、1572年12月下旬にゴディネスが死亡した。

 

エスペランサにはメスティーソの娘がおり、コンセプシオンのベルナベ・メヒアという者と結婚した。娘の夫はいつも戦争に行っていたので、常に娘は父ミランダの家にいた。娘の夫とミランダ家の関係は微妙にギスギスしており1573年11月1日に事件が起きた。ベルナベ・メヒアはエスペランサと口論になり殺人鬼と化し、彼女と彼女の娘を殺害した。騒ぎを聞いて現れたミランダも剣で突き刺されて死亡し、その後も無差別に殺戮は続き計7名が犠牲となった。

 

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