ヘロニモ・デ・アルデレテ

Jerónimo de Alderete(1519〜), オルメドで生まれ。
1520年コムネロスの反乱鎮圧に兵士として参加。1534年10月にセビーリャを出航。フワン・フェルナンデス・デ・アルデレテの指揮の下でインド諸島に向かった可能性がある。ベネズエラでのヘロニモ・デ・オルタルの遠征中、アルデレテは先住民との戦闘で功績を挙げる。野戦司令官でアグスティン・デルガドの死後、アルデレテは後継者の選出に不満を持つ者達の側につきオルタルの勢力から離脱した。

その後1535年ペルーへ行き、1539年ディエゴ・デ・ロハス率いるグラン・チャコへの遠征に参加。1536年8月にフワン・デ・アヨラスが設立したパラグアイの都市アスンシオンとの通信を円滑にすることを目指した。

アヨラスとその部下200人は、1537年にすでに原住民に殺されていた。森はほとんど侵入できず、川は氾濫し、原住民が絶えず包囲していた。アルデレテ達はピルコマヨ川に到達し、遠征の失敗を見るや否や、現在のボリビア南部にあるタリハに戻るべく旅立つ。

 

ペドロ・デ・バルディビアがチリへの遠征を企画していることを知ると、1540年4月フランシスコ・デ・アギーレとともに、タラパカへ向かいバルディビアと合流する。1540年12月バルディビアとともにマポチョ川流域に到着した。

 

サンティアゴの最初の市議会で議員の職を務めた。1548年4月25日にはペドロ・デ・ラ・ガスカにより王室会計官に任命され、同年9月マゼラン海峡に広がる土地が発見され、「サンペドロ」と呼ばれる小型船に乗り込み、同月17日に緯度41度15分で下船し領有権を得る事に貢献し、バルパライソに帰還した。やがてバルディビアにとって最も身近で有能な相棒となる。

 

バルディビアが土台を作ったビジャリカは、1552年にアルデレテにより建設された。後に、ガルシア・ウルタド・デ・メンドーサが再建した。

 

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