フランシスコ・デ・ビジャグラ

Francisco de Villagra Velázquez(1511〜),出生地はサンテルバス・デ・カンポスでエルサレムの聖ヨハネ騎士団ルビアレス団長アルバロ・デ・サリアとアナ・デ・ビジャグラの息子。

 

幼少期は、ベナベンテ伯爵の側近として仕え、その当時の思い出を大切にしていた。アストルガ侯爵夫人の家に移り、若くしてチュニス遠征のために入隊し、1537年1月4日にフアン・サンチェス・デ・ビスカヤの指揮する船でサンルカル・デ・バラメダを出航し、そこからインド諸島に向かった。そこからペルーに行き、クスコにいた翌年、ペドロ・デ・カンディアのチュンチョス探検隊に隊長として入隊。

 

ラス・サリナス(1538年4月5日)で敗れ、クスコに幽閉されていたディエゴ・デ・アルマグロを解放するために、アロンソ・デ・メサとフランシスコはクスコに戻ることを決意した。しかし、仲間の何人かに糾弾されたメサはその場で処刑され、フランシスコもまた死刑を宣告を受ける。フランシスコはゴンサロ・ピサロに釈明を試み、最終的にエルナンド・ピサロにより死刑は取りやめとなった。

 

その後、ビジャグラはペロ・アンスレスのもとに戻り、1年近く過酷な苦しみを味わった後、70人以上の兵士を連れてタラパカでバルディビアと合流し、新たな人生が始まった。

1541年サンティアゴ・デ・ヌエバ・エクストレマドゥーラの建設に立ち会い、同年の3月7日にカビルドの初代市会議員に選出された。サンティアゴの建設を終え、バルディビアはプロモウカエス地方に向かった。その間にサンティアゴは先住民の襲撃に遭うも、フランシスコやイネス達の活躍により防衛に成功した。
その後も、フランシスコは同市の政府でさまざまな役職を歴任する事になる。1548年バルディビアが援軍を求めてペルーに向かう事になり、フランシスコはチリの暫定政府を任された。

 

1552年末、バルディビアの命令により、北海発見のための遠征に出発し、時には先住民と戦いながらパタゴニアの一部を旅したが、自然の脅威の前に航海を断念し引き返した。コンセプシオンへ戻ると、バルディビアへ向かい、そこからさらに南、当時はデル・ラーゴと呼ばれていた地域を偵察する旅に出た。

 

妻のインペリアル司教ドン・アグスティン・デ・シスネロスの妹カーンディダ・デ・モンテサで、1554年4月9日に(息子ペドロと女中と2人の女を連れて)インド諸島に行く許可を得て、フランシスコがチリ総督となった時にチリに到着した。

その後フランシスコは、アルバロ、フランシスコ、イサベル(フアン・フェルナンデス・デ・モントヤと結婚)という子を残した。

 

中肉中背、髭は金髪。野心家であり、その変わり身の速さで激動の時代を駆け抜けた。勇敢な時もあれば臆病風に吹かれる時もあり、戦好きではあるが戦い方は基本的には慎重である。
総督になる前は人望があったが、総督になってからは評判が悪い。友人よりも権力、女性、着飾る事や宴を好んだ。また、貧しい者の敵でもある悪名の高い人物であった。「アラウコの叫び」においてバルディビアに次いでフランシスコもスペイン勢力の主要な人物と言える。

 

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