トゥパック・インカ・ユパンキ

Tupaq Inka Yupanki(?〜1493年),ケチュア語での意味は「高貴な計理士の王」。父パチャクテクの命により1463年に軍の最高司令官になり、北方へ領土を拡大させた。建築技師により再建されたキトを気に入っていた。1471年に父の死により皇帝に即位し、インカ帝国にとって残存する最大の抵抗勢力であるチムー王国(ペルー北部海岸地方の国)を征服した。

また、1480年頃に太平洋を探索する指揮をとったとも言われている。その時、イースター島を発見し、モアイなどの巨石文明に影響を与えたという説もある。

南部ではコリャ人達の反乱が起きたが、トゥパック・インカ・ユパンキは徹底期に制圧し、屈辱的な陵辱行為を行った。そしてコリャの地域にアンデス各地から移住者を送り込んだ。宗教面では引きつづき旧来の慣習を一部は認めてはいたが、行政上はクスコから送り込まれた者たちにより直接的に支配されることになった。最終的にコリャ王国はインカ帝国に統合され、さらにコリャの民は所定の地域にバラバラに移住させられ分断された。インカ帝国は土着の人々をバラバラに住ませる事により結束を削いでいき、帝国の支配をより強固にしていったとも言われている。

また、南部での大きな戦争はもう一つある。それはマプチェ族と激戦となったマウレの戦いである。ただ、トゥパック・インカ・ユパンキの治世中に起こったとも言われているが、パチャクテクの時代だったという説もある。

 

父:パチャクテク

 

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