Cristóbal Vaca de Castro(1492年〜),バルディアの友人。カスティージャ王国の一部であったレオン王国のマヨルガ近郊の村イザグレ、シエテグレシアス、サンタ・マリア・デル・オテロの領主ガルシ・ディエス・デ・カストロとギオマル・カベサ・デ・バカの子として生まれた。両親はマヨルガに定住していた。
幼少期と青年期については、バジャドリッド大学で法律を学び、学位を取得して卒業。若くしてガルシア・デ・ロアイサ(インド評議会議長、セビリア大司教となった人物)に仕え、彼の影響力の中で出世した。
1536年頃バジャドリッドの王宮と大司教座のオイドール(聴訴官)に任命された。シエテ・イグレシアス、イサグレ、サンタ・マリア・デル・オテロの領主となった。マリア・マグダレナ・デ・キニョネス・イ・オソリオと結婚し、8人の子供をもうけた。1540年9月9日サンティアゴ騎士団の騎士となる。
ロアイサの要請を受けたカルロス1世は、ディエゴ・デ・アルマグロの死や、新グラナダにおけるセバスティアン・デ・ベナルカサルとパスクアル・デ・アンダゴヤの確執など、征服者たちの間で起こった多くの騒乱のために、ペルー領内で起こっていた内乱の原因を調査するため、カストロを調査判事としてペルーに派遣した。また、もしフランシスコ・ピサロが死亡した、もしくは事故が発生した場合に、後任としてペルー総督(ヌェバカスティージャ州知事を務める権限も与えられていた。
1540年9月9日の勅令により、イスパニョーラ島とサン・フワン島の要塞を視察し、パナマのアウディエンシアを改革してその議長に就任する任務も負っていた。カルロス1世はカストロにより高い地位を与えるため、サンティアゴ勲章を授け、カスティージャ王室最高評議会にも編入した。
1540年11月5日17隻の船団を率いてサン・ルカル・デ・バラメダを出航し、嵐に見舞われサン・フワンへの上陸を阻まれる困難な航海を経て、同年12月30日にサント・ドミンゴに到着。翌年1月にはノンブレ・デ・ディオスを通過し、2月24日にパナマに到着。
1541年3月19日ペルーに向けて出航したが、激しい嵐に遭遇し、ブエナベントゥラに寄港することを余儀なくされ、陸路でカリに向かうが体調を崩した。
セバスティアン・デ・ベラルカサルとパスクアル・デ・アンダゴヤの争いを調停した。新大陸ではペルーのカハマルカ、エクアドルのクエンカ、サモラ、ロハなど多くの都市を訪れた。
フランシスコ・ピサロが暗殺され、1541年6月にアルマグロ・エル・モゾが現地でペルー総督に選出されていた。ペルーに向かう道中で、アロンソ・デ・アルバラドとペドロ・アルバレス・ホルギンがカストロ一行に加わった。
1542年8月7日リマに威風堂々入城し、高地に撤退したアルマグロ派との戦いに備えた。その後、ハウハに移動し、約700人の国王に忠誠を誓う兵士が集結。カストロは、彼らの前でペルー総督と王党派軍の総大将となる宣言した。
アルマグロ・エル・モゾは500人の兵士と強力な大砲を携え進軍してきた、カストロは直ちにワマンガに向かって南進。1542年9月16日カストロはチュパス平野で反乱軍を迎え撃った。アルマグロ・エル・モゾが捕えられると、カストロは裁判を行い、彼の首を刎ねさせた。
リマとキトの教区の区切り、淫乱な聖職者の追放、布教の拡大など、ペルー総督して現地の整備を開始する。フランシスコ・ピサロが作成したレパルティミエントスを見直し、エンコメンダたちに、合法的な結婚を結ぶ、先住民を州から州へ移さない、濫用的な税金の廃止、先住民を鉱山で働かせない等の条例を遵守させるよう命じられた。
1542年に制定されたインディアス新法の内容がペルーに広まり、エンコミエンダが実質的に廃止されたこともあって、反乱が起きた。また新法によりペルー副王を派遣する事が決定した。これはペルー副王を通してスペイン王室が直接ペルーを統治する目論見があった。
カストロは秩序を落ち着かせた後に、道路の整備、タンボスの供給の調整、鉱山の仕事の監督など、開発の仕事に専念した。また、一方で1543年頃にディエゴ・デ・ロハスを200人の部下とともにラ・プラタ川に派遣し、この遠征の結果、トゥクマンが発見。
1543年9月ペルー副王ブラスコ・ヌニェス・ベラを待つためリマに戻り、1544年5月15日ヌニェスに指揮権を譲った。しかしカストロは、ヌニェスによりカサ・レアルに監禁され、10万カスティジャーノの保釈金を課へられてしまう。なぜなら、ヌニェスはカストロのペルーでの不正に気づき、私欲の為の陰謀まで企ていた事を既に察知していたからである。
しかしゴンサロ・ピサロの反乱が始まった時、カストロの支持者の反発を恐れたヌニェスは、彼をカヤオの停泊所に停泊していた小舟に移すよう手配した。小舟に移ったカストロは、この機に乗じて船員達を説得し、パナマに向けて出港し、そこから本土に戻った。
1545年6月23日カストロはバジャドリッドに到着したが、インド評議会の合意によって逮捕され、不正蓄財の罪で裁判にかけられた。ヌニェスから送られた報告書、そして妻に送られた手紙(統治時代に蓄えられた財宝や金銭の内容、そしてそれらを隠すように妻にすすめている事が記されていた)が証拠となり、カストロは10年間投獄される。しかし、最終的には完全に無罪となった。
1556年10月8日フェリペ2世はカストロにカスティージャ評議会の議席を与え、1545年5月20日以降に支払われるべき金額の支払いを命じた。
1562年に公職を退くとサン・アグスティン修道院に身を寄せ、数年後に死去した。
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