ブラスコ・ヌニェス・デ・ベラ

Blasco Núñez Vela(1495年〜), アビラ出身で、古くからの貴族の家に生まれた。1163年にカスティーリャ王アルフォンソ8世の命を救った忠臣ドン・ペドロ・ヌニェス・デ・ラ・フエンテ・アルメキシル(フエンテアルメギル)の子孫である。彼はサンティアゴ騎士団の騎士であり、スペインのマラガとクエンカのコレギドールでもあった。彼の兄弟の一人は王の侍従長であり、もう一人はブルゴスの大司教であった。
ブリアンダ・デ・アクーニャと結婚し、7人の子供をもうけた。ヌニェスは誠実で忠実、勇敢、さらに正義感の強い人物であり、カルロス1世からも好感を持たれていた。

 

ヌニェスは、マラガとクエンカのコレギドール、オランの槍隊長、カスティーリャのガレー船と軍人の総監督、ナバラの辺境総監督を歴任した。1530年カルロス1世への金銀の積荷を積んで大西洋を横断したインド艦隊の最初の船長。海軍大将として、スペインと新大陸の間を短いながらも何度も航海したため、ペルー副王の大任を受けた時には、すでに新大陸にある程度精通していた。

 

1543年エンコメンデロスによる先住民に対する虐待に終止符を打つために策定されたインディアス新法の執行を任務とするペルー副王の地位が出来る。ペルー副王の立場は、4人のオイドールからなる王室聴聞会を伴い、民事と刑事の両方で高い司法権を有していた。ペルーの傲慢な征服者たちに不評な法律を公布し施行しなければならないことを考えると、このような責任ある地位を喜んで引き受ける人物を見つけるのは容易ではなかった。

カルロス1世は、ヌニェスの人格に目をつけ、1543年4月初代ペルー副王に任命した。彼の年俸は18,000金ドゥカートと定められた。

 

1543年11月3日大掛かりな設備と豪華さを備えた艦隊に乗り込み、新大陸に向かった。1544年1月10日にノンブル・デ・ディオスに到着した。

ヌニェスは、コンキスタドール達から先住民奴隷の所有権を剥奪した。さらに、奴隷の労働力によって得られた富だという事で金銀などの差押えも行った。またコンキスタドール達に対し、いかなり異例な事態も認めず、遅れも許さず、条例をその通りに実行するよう求めた。

 

1544年3月14日にトゥンベスに到着し、陸路でリマへ向かう事にした。サン・ミゲル・デ・ピウラに到着すると、先住民の奴隷を解放してニカラグアとパナマなど彼らの出身地に帰らせるように奴隷の所有者達に強要した。執拗に条例を施行するヌニェスへの不満はより高まり、時には脅迫文まで貼られる事もあった。

 

1544年5月15日ついにリマに到着し、さっそく5月17日には厳格に条例を実行し始めた。コンキスタドール達は猛烈に抗議をしたが、ヌニェスは「自分は法律の執行者にすぎず、作成者ではない。」と言い放ち意に介さなかった。

ヌニェスに不満を持つものがゴンサロ・ピサロを中心に反乱を起こした。1544年4月ゴンサロ・ピサロはクスコに進軍し、壮大な歓迎を受け、ヌニェスに、そして必要であればカルロス1世へインディアス新法に抗議すると宣言した。

 

リマの情勢は緊迫したままだった。ヌニェスは、前任のバカ・デ・カストロに疑念を抱いており、裁判にかけて投獄した後、船で移送した。

苛烈で厳格過ぎるヌニェスに、更に多くの者の不満が募った。遂には、王宮の判事たちは人望を得るために、エンコンメンデロの権利を擁護し、総督を排除することを決意した。

 

1544年9月18日大聖堂のアトリウムで法廷が開かれ、アウディエンシアはヌニェスの解任を宣言し、近隣住民の同意を得て、彼の投獄を命じた。20日ヌニェスはマランガのポルテスエロで乗船し、サン・ロレンソ島に運ばれてオイドール・ファン・アルバレスに引き渡された。オイドール、ディエゴ・バスケス・デ・セペダは最も年長であったため、ビセロイヤルの政治的指導者となった。

ヌニェスを乗せた船が出航すると、オイドールであるフアン・アルバレスがヌニェスの威厳を傷つけたことを詫び、忠実な僕として従う事を告げた。ヌニェスは船をトゥンベスに進めるよう命じ、10月中旬に下船した。ヌニェスはキトに向かい、そこで国王に忠実な軍隊を集めた。

 

一方、ゴンサロ・ピサロは10月28日1200人の優秀な兵士を率い、多数の大砲で武装し、カスティーリャの王旗を掲げて、リマに堂々と入城した。
ゴンサロの腹心「アンデスの悪魔」と呼ばれる事になるフランシスコ・デ・カルバハルは、先回りしてリマについており、見せしめとして既に有力な地元名士を絞首刑に処していた。カルバハルはリマの有力者達に圧力をかけ、ゴンサロをペルー副王として承認させた。

こうして、ヌニェスを頂点とする王室忠誠派と、ピサロを頂点とする反乱軍「ゴンサリスタ」に分かれ衝突し「キトの戦い」へと発展する。

 

ヌニェスはサン・ミゲル・デ・ピウラを占領し、南下を続けた。これを聞いたゴンサロ・ピサロは、軍を率いてリマを出発し、北上してトルヒーヨに到達した。

ヌニェス軍が北部に再び現れ、ピウラまで進撃してきた。カルバハルは進軍し、ヌニェスはゴンサロ軍の強大さに退却を余儀なくされた。戦の勝敗はカルバハルの手中にあったにもかかわらず、ヌニェス軍をキトまで退却させてしまう。このカルバハルの不可解な行動の裏には、戦争を長引かせ、金儲けをするためだったという説もある。

 

その後、ヌニェスは忠実な指揮官セバスティアン・デ・ベナルカサルと高地で合流するため、北のポパヤン(現在のコロンビア)を目指した。一方、ゴンサロは、カルバハルに自分が到着するまで、新しい戦線での作戦を行うよう命じた。

ヌニェスはポパヤンで援軍を得て、決着のつかない小競り合いが続いた。さらにこの地域のクラカ(インカ帝国の役人)の支持を得て、ゴンサロ側への補給を止められた。ゴンサロは戦が長期化している事に焦りを募らせていった。

 

その矢先、ヌニェスは自身の猜疑心により、自身の配下3人を処刑してしまった。ピサロはヌニェスをポパヤンから出陣させるための巧妙な作戦を思いついた。ペドロ・デ・プエジェスの指揮の元、小規模な守備隊にキトを任せて、ゴンサロは全軍で南へ進軍すると見せかけた。また先住民の協力者達に、ディエゴ・センテノ軍と戦闘中のカルバハル軍の援軍として進軍しているという情報を広めるよう指示した。ヌニェスはその情報にのせられ、再びキトを占領するつもりでポパヤンから出陣した。

 

ヌニェスはキトから3リーグ離れたグアラバンバ川のほとりにゴンサロ軍が駐屯していることに気づいてはいなかった。ヌニェスの斥候が、その事実を発見した時には、既に手遅れの状況になっていま。ベナルカサルは、反乱軍の位置があまりにも有利であることを見抜き、人通りの少ない道を通って迂回してキトを目指す事を進言した。ヌニェス軍がキトへ辿り着くと、ゴンサロの優勢を知っていた民衆から非難を受けた。キトでの防衛戦は不利と考えたヌニェスは、キトから打って出る事にした。

 

ヌニェス軍とゴンサロ軍は、1546年1月18日にキト近郊のイニャキートで対峙する事になる。ピサロ軍700人に対してヌニェスとベルカサル率いる数百人が抗った。ヌニェスは槍を手に必死に戦い、老齢にもかかわらず驚異的な勇気と力を見せたが、ついに槍が折れ、アレキパ在住のエルナンド・デ・トーレスが放ったメイスの一撃で倒れた。

 

ベニート・スアレス・デ・カルバハルは、無礼な侮辱を浴びせた後、喉をかき切ろうとした。しかしその場にいたプエジェスが、すでに倒れている人物に死刑執行人を務めるのは卑怯すぎると言って彼を制止したため、ベニートは奴隷の一人に死刑執行を命じた。

彼は死刑を実行し、ヌニェスの長い白髭から羽を作り、それを帽子に入れ、戦利品として身につけた。そして、コンキスタドール達は勝利した事を示す為、ヌニェスの首を杭に刺してパレードを行った。

 

ただその後、ゴンサロは、ヌニェスの遺体をキトに運び、その首を柱から取り除くよう命じた。ゴンサロは自ら埋葬に参列し、彼の魂のためにミサを行うよう命じ、皆に彼の死を悼むよう命じた。

 

植民地の喪失を恐れたスペイン王室は、新法を弱め、エンコミエンダを復活せざるを得なくなった。

カルロス1世は、ヌニェスの功績を毎年称えるよう命じた。息子の内1人はサンティアゴ騎士団に、1人はアルカンタラ騎士団に任命した。息子たちはフランス大使、砲兵大将、ブルゴス大司教となった。

 

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