ゴメス・デ・アルバラド

Gómez de Alvarado(1482年〜1542年) エクストレマドゥラのバダホスの生まれ。キューバ、メキシコ、グアテマラ、エルサルバドル、キト、ペルー、チリで活躍した。ペルーのコンキスタドール同士の内戦では、チュパスの戦いの直後に病死した。ワヌコ市(現在のペルー中央高地ワヌコ県)の創設者でもある。

 

両親はサラ・レオノール・デ・コントレラス・イ・グティエレス・デル・トレホとペドロ・ゴメス・デ・アルバラード・イ・メヒア・デ・サンドバル。元チリ大統領カルロス・イバニェス・デル・カンポの直系の先祖。

 

1510年に兄ホルへ、弟達(ペドロ、ゴンサロ、フワン)と共に新大陸に渡る。イスパニョーラ(サント・ドミンゴ島)に到着した後、キューバに向かった。その後、エルナン・コルテスに従ってメキシコに渡り、その征服に積極的に参加した。その後、グアテマラとエルサルバドルの征服にも同行した。1534年兄が組織した遠征隊に同行し、ペルーに向かった。キトの遠征に参加した。

 

弟ペドロ・デ・アルバラドがグアテマラに戻った後、1535年ディエゴ・デ・アルマグロの側についてチリ遠征に同行。キヨタでは、遠征隊はインカの道、特にキヨタとタラガンテのミティマ間の海岸沿いの道を辿った。そこからコルディジェラ・デ・ラ・コスタに沿って進んだ。ラグニージャス地区では、エステロ・デ・コルドバを下って海(イスラ・ネグラ)へ向かい、そこから海岸沿いに現在のアルガロボとエル・キスコ地区へ向かった。

 

伝説によるとアルマグロがチリに到着した時、彼はゴメス・デ・アルバラドに海岸線全体を陸路で旅させ、後にマルガ・マルガと呼ばれるようになる河口に最初に到着させた。しかし、期待したような富は見つからなかった。そこで先住民たちは、さらに南に行けば財宝と先住民の美女が見つかると告げた。

スペイン人たちは言われたところへ行き、チャンゴ族が住むエル・キスコに到着したが、チャンゴ族も他の人々と同様に貧しく、富もなかった。最も美しかったこの部族の王女は、スペイン人に虐げられ酷使されている民衆を見て、女たちに一番高い岩に登って海に身を投げるように命じた。

 

1536年アルマグロの命で南方遠征の指揮し、マプチェと衝突し勝利する(レイノウェレンの戦い)。しかしペドロ・マリーニョ・デ・ロベラのみがこの戦いに言及していないことからこの戦いが本当にあったかは疑問が残る。レイノウェレンの戦いの後、これといった収穫をえられずアルバラド隊引き返す事になり、アルマグロは南方遠征を断念する。

1537年4月8日アルマグロはクスコへの進軍中、アバンカイ近郊にいたスレート運搬人アロンソ・デ・アルバラドに対し、ゴメス・デ・アルバラドを使いに出した。しかし、アロンソ・デ・アルバラドはアルマグロの申し出を断った。ただそれだけには止まらず、アロンソ・デ・アルバラド自身の親戚筋にもあたるゴメス・デ・アルバラドを捕虜にし、過酷な扱いまでした。

1537年7月12日アルマグロと副官ロドリゴ・オルゴニェスは、アロンソ・デ・アルバラドに奇襲をかけ、アバンカイ橋の戦いで勝利する。そして、今度はアロンソ・デ・アルバラドが囚われの身となった。

 

その後ゴメス・デ・アルバラドは、チンチャ王国の建国とマラでの交渉に関与したが、交渉は決裂した。エルナンド・ピサロによって敵対行為が再開されたとき、彼はクスコに戻るべきだと考えた。

1538年4月6日ラス・サリナスの戦いでゴメス・デ・アルバラドは防衛を任されたが戦に敗れ捕らえられた。共に捕らえられたアルマグロは処刑されたが、彼は処刑を免れた。

 

ゴメス・デ・アルバラドがリマにいたのはわずかな期間だったが、フランシスコ・ピサロから、フアヌコ渓谷(ペルー中央高地)にスペイン人入植地を設立するよう命じられた。ピサロの意図は、敗れたアルマグロ派に土地を与えて彼らの不満を静めることであり、同時にこの地域の大部分を支配していたマンコ・インカの最後の隊長イジャ・トゥパックとの戦いの足がかりを作ることであった。

 

ゴメス・デ・アルバラドは、多くのアルマグロ派を従えて任務に出発した。古代都市フアヌコ・パンパに到着し町の設立を決意し、1539年8月15日ディエゴ・デ・カルバハルとロドリゴ・ヌニェス・デ・プラドを初代町長として町を設立した。
この設立は、最近ワマンガが設立されたことで、リマの管轄がさらに狭まると、リマのカビルドからの抗議に直面することになる。ピサロからの圧力により、ゴメス・デ・アルバラドは市の称号を撤回し、ビジャの称号のみを残すことに同意した。
しかしその後、ゴメス・デ・アルバラドはもしワヌコに市の称号も与えられなかったら、ワヌコには戻らないと脅した。ただ、この入植地は長くは続かず、イジャ・トゥパック率いる先住民たちの敵意によって、徐々に放棄されていった。

 

チュパスの戦いの後、クリストバル・バカ・デ・カストロ総督は、ペドロ・デ・プエジェス大尉にワヌコの最終的な建国を託し、「ワヌコ・レオン騎士団都市」と命名した。

1540年ゴメスは、リマ滞在中にアロンソ・デ・アルバラード(援軍を求めてチャチャポヤスから戻ってきた)と対立し、決闘に発展しそうになったが、フランシスコ・ピサロが両者をなだめ沈めた。

 

1541年、ピサロが暗殺されたとき、彼はまだリマにいた。この事件に憤慨した彼は、陰謀を企てたリーダー、フアン・デ・ラダを厳しく非難した。その為、彼はアルマグロ派、当事者のフアン・デ・ラダからも侮辱を受け、反感を買った。

 

親戚のガルシア・デ・アルバラードは、アルマグロの反乱軍のリーダーであるアルマグロ・エル・モゾに会うようゴメスに懇願した。エル・モゾと会い、彼は納得はしてはいなかったがアルマグロ派の大義に加わった。しかし、フアン・デ・ラダとは和解とはなっておらず反対されはしたが、彼の参加は覆る事はなかった。

 

バカ・デ・カストロの到着が間近に迫っていることが知れ渡ると、彼は茶番劇にこれ以上付き合いきれないと思い、ジャウハでアルマグロ派の反乱に嫌気が差している事を告白し、リマに戻る許可を得た。その後、彼は不満分子を引き連れてリマに戻った。

 

バカ・デ・カストロは、リマで彼を騎兵隊長として軍に入れた。この時またしても、アロンソ・デ・アルバラドと口論の末、決闘未遂を起こし、バカ・デ・カストロから叱責を受けた。その後、1542年9月16日チュパスの戦いに参加し、エル・モソを破った王党派軍の6人の騎兵隊長の一人となった。当時、彼は健康状態が悪かったが、精力的に戦い、明晰だった。その直後、ビルカスにいる間に病状が悪化し、その結果亡くなった。遺体はワマンガに運ばれ、そこに埋葬された。

 

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