ドン・ガルシア・フルタード・デ・メンドーサ・イ・マンリケ4世

Don García Hurtado de Mendoza y Manrique(1535年〜),スペインのクエンカで生まれた。軍人であり、チリ総督、第8代ペルー総督。ペルー総督時代には、海賊ホーキンスを捕らえ(1594年)、財政と行政を改善し、彼の名を冠したマルケサス諸島を発見した太平洋横断探検隊を指揮した。

 

両親は、カニェテの2代目侯爵アンドレス・ウルタド・デ・メンドーサと、第3代オソルノ伯爵オソルノ伯爵の3番目の妻の娘ドニャ・マリア・マンリケ。14歳の時、マリア・デ・アブスブルゴ王女の召使いとなり、2年間その職に就いた。

 

1552年に対フランス遠征のためジェノヴァに向かい、コルシカ島に向かうためマラガに到着した。その後、ミラノに向かい、セーヌ川でストロッツィの軍と戦い、ブリュッセルにいた皇帝にストロッツィの敗北の知らせを伝えるために派遣された。フランスに戻った時に森で起こった戦いに参加。その後、カルロス1世が父アンドレスをペルー副王に任命したことを知り、スペインに戻り新大陸に連れて行ってくれるよう頼んだ。

 

◽️新大陸へ
1557年1月9日父によりガルシアは21歳という若さでチリ総督に任命される。当時、フランシスコ・デ・ビジャグラとフランシスコ・デ・アギーレのどちらがチリ総督にふさわしいかについて意見が分かれていた。アンドレスはそこで息子ガルシアを派遣した。

 

500人のスペイン人が入隊し、そのうちの何人かはルイス・デ・トレドとペドロ・デ・カスティーリョの指揮の下、陸路で入隊した。第一陣は1557年1月に陸路で、第二陣は同年2月に海路で出発した。

 

出航間際アンドレスは息子とその仲間たちを豪華な宴でもてなし、軍隊の行進と大砲の音が鳴り響く中を出航した。ガルシアとともに、詩人アロンソ・デ・エルシーリャ、フランシスコ・デ・イララサバル、フランシスコ・ペレス・デ・バレンズエラ、法学者で学者のエルナンド・デ・サンティリャン、ドミニコ会修道士ギル・ゴンサレス・デ・サン・ニコラス、フランシスコ会のフアン・ガジェゴスなど、学識豊かな名士たちが随行した。4月5日にアリカに立ち寄り、9日に南への旅を再開した。

 

◽️チリ総督就任
ガルシアの最初の仕事は、この2人の候補者を反乱罪で投獄し、リマに送ることであった。
ガルシアは勇敢な若者で、自身の血統と知性に誇りを持ってはいたが、同時に非常に傲慢で暴力的で閉鎖的、かつ権威主義的なアプローチをとっていたため、身内にも隠れた敵がいた。

 

1557年4月23日ラ・セレナに上陸した。コキンボの貧しい人々は、新しいチリ総督とともに、この地方で見たこともないような500人以上の大軍が、鎧と羽飾りで武装しているのを目の当たりにし、目を見張った。それ以来、彼らは「羽の生えた者たち」と呼ばれるようになった。

 

フランシスコ・デ・アギーレはラ・セレナでガルシアを手厚くもてなしたが、ガルシアは一瞬たりともためらうことなく逮捕した。ラ・セレナに到着したばかりのフランシスコ・デ・ビジャグラとも似たような流れとなった。チリ総督を争っていた2人は罪人となり船に乗せられた。そして4月25日に、ガルシアはラ・セレナでチリ総督に就任した。

 

また、ガルシアがチリ総督の間に、腹心として同行したエルナンド・デ・サンティランにより、先住民の隷属を規制するサンティラン税が制定された。この税制により多くのスペイン人が先住民を虐待し、後にホイリゲ族が反乱を起こす原因となった。

 

◽️マプチェとガルシア
冬が近づくにつれチリ総督がサンティアゴにいくのが自然な流れであった為、町議会はチリ総督を歓迎する準備を整えいた。しかしガルシアには別の計画があり、悪天候で危険な環境の中、コンセプシオンまで海路を進むことを決めた。

 

コキンボで騎兵隊を陸路に送り、真冬の1557年6月21日に出航した。8日後にコンセプシオン湾に到着したが、暴風雨のため船は危険にさらされ、豪雨の中、キリキナ島で下船し、仮の宿営地を設営した。

 

コンセプシオンに定住すると、ガルシアは先住民マプチェに対して見かけ上の融和と好意的な政策をとった。マプチェ達はチリ総督からの贈り物を受け入れたが、自分たちの領土がスペイン人の新興勢力に占領されることを望まなかった。そこからマプチェとガルシアとの熾烈な戦いが始まった。「アラウコの叫び」では特にこの部分がクローズアップされる事になる。

 

◽️政権交代
チリ総督の任の間、ガルシアは周囲からあまり好かれていなかった。怒りっぽく頑固な性格と漠然としたプライドは、腹心のサンティランすら辟易していた。しばらくして、国王により父アンドレスがペルー総督の任を交代させらることになった。

ガルシアにとってはさらに悪いことに、フランシスコ・デ・ビジャグラがチリ総督に任命されてしまった。このような理由から、彼はすぐにチリを去ることを決めた。

 

その矢先、新ペルー総督となったディエゴ・ロペス・デ・スニーガが突如何者かに襲撃され死亡してしまった。そこでガルシアは考えを変え、しばらくリマに滞在する事にした。そして、フランシスコ・デ・ビジャグラと植民地の状況について紳士的に面談する機会を得る事になる。フランシスコは、ガルシアが期待していたような屈辱的な態度はとらず、それどころか冷たくも紳士的な態度で接してきた。

 

ただ今度は、父アンドレスが亡くなったという知らせが届き、ガルシアはまた進路を変更する事になる。フランシスコがチリ総督に就任するまでの間、キロガを急遽チリ総督代理に任命し、すぐにペルーに向かうことにした。

 

ペルーで彼は、政府の恣意的な行為(アンコミエンダの配給、兵士への劣悪な待遇など)に対して居住地裁判を受けることになった。

ガルシアはカスティージャ法で裁かれた最初のチリ総督だった。法廷によれば、彼は196の罪状で有罪であったが、確定判決はリマ王宮に委ねられた。

 

この判決によると、ガルシアは、すべての告発に対して正当性を主張するか、宣告された刑罰を支払うまで、リマ市を牢獄としてそこに拘留されることになった。しかし、ガルシアはもうペルーにはいなかった。

 

◽️スペインへ
彼はスペインへ旅立ち、フェリペ2世とインド評議会にチリでの作戦と統治について報告した。
メンドーサ家の名声、リマの謁見者が集めた彼の功績に関する情報、そして彼に忠誠を誓う何人かの隊長たちがチリから書き始めた勧告によって、彼の敵の非難は聞き流された。

 

1573年1月11日第5代レモス伯、第2代サリア侯、第4代ビラルバ伯、第3代アンドラーデ伯のペドロ・フェルナンド・ルイス・デ・カストロ・アンドラーデ・イ・ポルトガルとテレサ・デ・ラ・クエバ・イ・ボバディーリャの娘テレサ・フェルナンデス・デ・カストロ・イ・デ・ラ・クエバと結婚。

 

1575年使節とともにサヴォイ公のもとへ向かい、トリノに滞在し、ミラノでは大砲の鋳造に携わった。スペインに戻ると中隊とともにポルトガルへの旅に従軍。1588年6月30日ペルー副王に任命される。翌年11月28日にカヤオに到着し、1596年7月24日まで統治した。

 

1591年兄の死により爵位と領地を譲り受け、スペインに戻る途中、カルタヘナ・デ・インディアスで妻を亡くした。サン・ルカルに到着した後、痛風のためセビリアに数ヶ月滞在し、最終的にマドリードに居を構え、豪華な宮殿を建てた。

 

1598年フェルナンド・デ・ラ・セルダとアナ・デ・ベルネミクールの娘アナ・フロレンシア・デ・ラ・セルダと再婚。

 

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