ロレンツォ・ベルナル・デル・メルカド

Lorenzo Bernal del Mercado(1516年〜),カンタラピエドラ(サラマンカ)に生まれ。フランシスコ・マルティネス・ニエトとアナ・ベルナル・デル・メルカドの子。チリのエル・シッドと称えられた人物。

 

1543年ペルー副王ブラスコ・ヌニェス・ベラの付き添いでペルーに渡り、ゴンサロとの戦いに参戦し6年間ペルーに留まった。その後、ペルーからボリビアに渡り、そこで財を成した。

 

1549年には、フランシスコ・デ・ビジャグラがポトシで人々を募集したとき、彼はポトシにいた。その時入隊した最初の一人であり、アンデス山脈の反対側にあるユングロとコメチングネスの土地での2年間の行軍に参加し、1551年10月末にサンティアゴに到着するまでフランシスコ軍に従軍した。ペドロ・デ・ビジャグラのアンゴル征服にも同行した。フランシスコはメルカドの功績を称え、エンコミエンダを与えた。
インペリアル、バルディビア、ビジャリカの発見と開拓、後にオソルノが開拓された地域への遠征に従事。

そこからの帰途、彼はインペリアルに滞在し、時には山や丘、沼地で先住民と戦い、そこに滞在した1年の間、しばしば重傷を負った。

 

ロドリゴ・デ・キロガ、ドン・アロンソ・デ・ソトマイヨールなど地位のある者達からも認められていた。ただし、同様に軍人であるドン・ミゲル・デ・ベラスコとは確執があった。

 

メルカドはドニャ・マリア・モンテ・デ・ソトマイヨールというコンセプシオン出身の若い女性と結婚していたが、彼女は異端審問にかけられた。1575年初め、ベルナルは聖職庁の費用として250ペソを支払い、問題の解決を強いられた。同年妻は死に、翌年総督の職務を続けることを辞退した。

その後、ドーニャ・マリア・デ・ロハスと再婚し、ドーニャ・ロレンサ・デ・メルカドとドーニャ・イサベル・デ・ロハスを儲けた。メルカドは1596年9月にアンゴルで息を引き取った。

 

サンティアゴ、ラ・コンセプシオン、アンゴルのコレギドールを何度も務め、多くの者から信頼され、重要な任務や困難な事業の任され続けた。

戦では我先に城壁によじ登り、矛を振りかざし、砦を陥落させた事もある。

勇敢で体格が良く、勤勉で、知性的と評されていた。また、物腰は穏やかで、総督にふさわしい人物だったと言われいる。ただ、先住民に対しては深い憎しみを感じており、常に厳しく接した。
ヌニェスと同様、硬い性格であり、外交にも向いていなく、出世に支障をきたす程だった。

 

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